レース記録

Day28

2013.06.24

本日のルート

現在我々はブラチスラバのホテルにいる
昨日の予定宿泊地(kosice]]を飛ばし、ベントレーと一緒にブラチスラバに午前3時半に到着
約20時間の移動だ
これからの予定は
32日目予定の宿泊地フランスtoyesの修理工場に、途中経由地(3宿泊地)をスルーし、1200キロを2人のドライバーが車を運ぶ事に事にした。 我々もトラック会社が用意してくれたミニバスで帯同するが、ミニバスには我々とサポート2人が乗る 総計6人の大移動となった。
到着は本隊到着2日前になるため、本隊が来る前には修理が出来ていると思う(多分・・)
修理が出来れば、自走でバンドーム広場に入れる
問題は、部品が予定通り手に入るか?であるが、ケセラセラである








Sugiyama

キエフからベントレーを積んできたトラックがやっと到着。午前11時ルヴィウを出発。ウクライナとスロヴァキアの国境まで300km。運転手は午後5時には着けるだろうと言う。6時間のトラックの旅。

ルヴィウを出ると山が見えてくる。カルパチア山脈の山越えだ。2トンのベントレーを積んでいるから,確かに時間はかかる。途中,運転手は昼食をとったり,洗車をしたりと、完全にマイペース。こちらは一刻も早くスロヴァキアに入り,本隊を追って今日中にブラチスラバに行きたいと思うが,彼は英語を話さないので、どうにもしようがない。彼の言う通り午後5時に国境に到着。

ウクライナ側の検査は予想に反して担当官が好意的で,長い車の行列を素通りさせてスムーズに通してくれた。さてこれからはヨーロッパのスロヴァキアだから,もう時間の問題はないだろうと思ったところ,あにはからんやトラックの後ろで延々と待たされた。あげくの果てにレントゲン検査を受ける事になり,やっと終わってまたトラックの後ろに廻され,結局スロヴァキア側の検査のお陰で合計3時間の国境通過時間となった。スロヴァキアは外からEU圏に入る最初の国なので,検査が厳しいというのは分かるのだが・・

午後8時にスロヴァキアに入って,ベントレーをスロヴァキア側の業者の車に積み替える。ここで時間帯が変わって,中央ヨーロッパ時間になり午後7時、1時間得したような気分になる。午後8時には準備が終わって、我々はジープに乗り,ベントレーを運ぶトラックとともに540km 先のブラチスラバを目指す。

広い平野が広がり,右手(北側)に高い山が見える。日本でなじみの風景だ。そのさらに北のポーランドとの国境には2400m級の、今でも雪を冠るタトラス山があるとの説明。午前3時半にブラチスラバに到着。6時間半のドライブで車とともに本隊に追いつくことができた。

昨日のレポートでルヴィウはヨーロッパの町だと書いたが、1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻した時,ルヴィウはポーランドの町だった。ところが。独ソの秘密協定によってポーランド分割が行われ,ルヴィウはソ連に併合された。ドイツの敗戦によってドイツ・ポーランド間の国境がオーデル・ナイセのラインに決められ、それまでドイツ領だったシレジア、ポンメルン、ダンチヒがポーランドに割譲されたが、ソ連はナチスドイツとの間で獲得していた旧ポーランド領はそのまま領有したため、戦後ポーランドの領域は西に大きく移動し,ルヴィウはそのままソ連領、そして現在はウクライナの一部となっている。

地続きのヨーロッパではかつて国境の変更は当たり前のことだったと、歴史の教科書で習ったが,ルヴィウの町の運命はわずか70年あまり前に決められたことである。ルヴィウに実際に旅をして歴史の過酷さを実感した。また、ウクライナの国境の町、ウシュゴロドの大きな町並みを遠くから眺めながら,そしてこの町に来ることは二度とないだろうと思いながら、この町にもかつていろいろな変遷があったのだろうと想像した。

Chikushi

ルヴィウを出発してカルパチア山脈を越える途中の街道筋にあった教会。木造・タマネギ頭の姿がユニークで珍しい。

  • 同じく街道筋の湧き水。みんなここで飲み水や車の冷却水として水を汲んで行く。

  • カルパチア山脈の山。ノヴォシビルスク以来10日ぶりの本格的な山なので写真に撮ってしまった。

  • ウクライナの山間の村。

  • 同じくウクライナの山間の村。手前に植えてあるのはトウモロコシ。

  • ブラチスラバ城の遠景。ホテルのカールトン・ホテルの窓から。

  • ホテル前の広場。

Moive

Peking to Paris Motor Challenge 2013 #94 Sugiyama&Chikushi


杉山・筑紫チームのユーラシア大陸横断記
24日目~31日目「修理・復活編」です。
次の動画は「33日目」となります。

Bratislava ブラチスラヴァ 

通貨ユーロ
1ユーロ=162.46円(2024年12月2日現在)
緯度北緯48.1°(ウィーンと同じくらいの緯度)
経度東経17.1°
年間日照時間2082時間(東京は1881時間)
年間降水量557mm(東京は1529mm)
ビッグマック指数スロバキアでビッグマックは約583円(東京では通常320円)

<ブラチスラヴァ>

スロバキア共和国の首都。ドナウ川に面しています。スロバキアの政治、文化、経済の中心都市であり、中央ヨーロッパ有数の世界都市です。
この町は、長い間ハンガリーの国土の一部で、ドイツ語ではプレスブルグ、マジャル語ではポジョニと呼ばれていました。1541年、当時のハンガリー王国の首都ブダがオスマン帝国の手に落ちた際には、ブラチスラヴァにハンガリーの首都が移され、その後1563年から1830年までの間は、ブラチスラヴァ城の麓にある聖マルティン大聖堂でハンガリー王の戴冠式が行われました。ここで即位したハンガリー王は11人、女王は7人にものぼり、そのなかにはかのマリア・テレジアも含まれています。
現在ではスロバキア共和国の首都として、同国最大の町となっています。近郊には農地も多く、古くからブドウが栽培されワインの産地としても名高いです。町の中心には旧市街が美しく保存され、町そのものが見どころといえます。
1997年から国際連合開発計画(UNDP)欧州・CIS諸国局本部、2009年から国際連合人口基金 (UNFPA) 東欧・中央アジア地域事務所本部の各国際機関本部が置かれているほか、ヴィシェグラード4カ国による国際ヴィシェグラード基金本部、万国郵便連合 (UPU) 欧州委員会が置かれています。


http://wikitravel.org/en/File:Bratislava_view.JPG

<ブラチスラヴァ城>

ドナウ川のほとりに高い丘があります。その頂にそびえているのがブラチスラヴァ城です。四角い建物の四隅にそれぞれ塔がある独特の外観から、“ひっくり返したテーブル”などと呼ばれて親しまれています。
12世紀にはすでに石造りのロマネスク様式で建てられた城がここにあったようですが、それが1431年から1434年にかけてゴシック様式の要塞に改築されました。やがてオスマン帝国の侵攻に備えて防備が強化され、1635年から1646年にかけての改築で4つの塔が付け加えられて現在みられるような外観がほぼ整いました。16世紀にはハンガリー王国の首都となったこの町の象徴となり、18世紀にはハプスブルグ女帝マリア・テレジアの居城ともなりました。しかし文化や政治の中心が再びウィーンやブダペストへと移り、ブラチスラヴァ城の価値も下がってしまいました。やがて1811年に大きな火災が起きて荒廃し、復旧されたのは第2次世界大戦後です。場内の一部は博物館になっています。城のある丘はよく整備されて公園のようになっており、市街やドナウ川を一望できます。


http://wikitravel.org/en/File:Bratislava_Danube.jpg
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

明日のルート