レース記録

Day23

2013.06.19

本日のルート

今日はロシアからウクライナに入る。ウクライナの入国審査は早かった
ウクライナはロシアと違い、町並みからしても洗練された都市に感じる。
宿泊しているホテルも素晴らしく、私の部屋は他の人と比べるとかなりすごい(スイートルームに近い

今日の最大の出来事は、エンジンルームにラジエターの水が入り込むことだ
想像して欲しい、エンジンルームでオイルと水が混じりながら走行している事を・・
走行中の自覚症状としては、馬力が無くなる、ラジエターの温度計が極限まで上がる、白色の排気ガスが出ることである。  排気ガスについては、他の参加者からも指摘をうけていた
ラジエーの水が直ぐに無くなるため補水の連続で、街道筋で家を新築している工事現場からも
水を分けて貰いながらの走り。 途中からは、異変に気付いたレスキューユニット3台の伴走を受けながら 既に歓迎セレモニーも終わっているホテルにたどり着つけた。
早速レスキューユニット6人全員と五十嵐社長・93番が打ち合わせ後、応急手当を施すが
明日は、専門家の意見を取り入れて、キエフまでキャリアーに載せて運ぶことにした(我々も同乗)
イギリスに注文した、ガスケットとオイルフィルターが21日にキエフに届き次第修理をする
幸い、21日の休養日を利用しての修理なので、22日からはレースに復帰出来るだろう。
21日の修理は専門家に任せ、市内観光とウクライナ美人探しに出かけることにした。



Sugiyama

今日もいつものように大陸横断の見聞を記録しようと思っていたが,車のガスケット部分に重大な不具合が生じて,これ以上自力で車を動かすことが出来なくなった。

ハリコフのホテルに辛うじてたどり着いて,事務局のレスキュー隊に長い時間をかけて応急修理をしてもらったが,いつ車が完全に止まってしまうか保証の限りではないと言われた。

そこで,イギリスのベントレー社への部品の注文や,キエフまでのトラックの手配をするために夕方の時間を費やしたため,記録を書く時間が亡くなってしまった。キエフから補完することにしたい。

不幸中の幸いとでも言うべきは,ロシアからウクライナに入ってこの問題が見つかったことで,ハリコフからキエフまでの同じウクライナ国内で移動と修理が出来ることだ。つまり,明日トラックでキエフに移動し,明後日の休養日に車の修理をし,明々後日にはラリーに復帰することが出来る。

ラリーの期間中,車についていろんな不具合や難題が次々に出てきたので、少々のことでは驚かなくなり、また諦めなくなった。明日のことは明日考えるとして,今日は早く寝ることにする。

(トロアで追記)
ヴォロネジを6時半にスタート。気温は7−8度だが風があるので肌寒い。曇り。今日は自由スタートなので早めにウクライナとの国境の町、ベルゴロドへ向かう。道路の状況は随分良くなってきた。悪い道でも穴に砂利等を埋めているので,ガタンということはない。

周りは農業地帯に変わり、また前日までの平原ではなく少し丘の起伏が出てくる。小麦、ジャガイモ、トウモロコシ,そしてひまわりが植えられている。ひまわりの畑は日本では見られないと思うが黄色い花が一面に咲いているのは見事だ。

ヴォロネジを出ると、幹線道路にクルスクまで211kmと表示されている。第二次大戦の独ソ戦で戦車戦の戦場となったところだ。クルスクに限らずハリコフに向かう途中の町や村には飛行機や戦車の記念碑,そして戦闘の模様を表示した説明板等があった。この辺一帯が戦場だったのだ。そういえばこれから行くウクライナのハリコフは4回戦場になったという。そのうち2回はドイツ軍のスターリングラード侵攻の行きと帰りということか。それでもさらに2回の戦いがある。

ロシアとウクライナの国境通過は実に簡単だった。ロシア側ではパスポートと車検証、車体エンジンナンバーをチェック。パスポート以外は文書の種類を問わない。分かれば良い。ウクライナ側でも同じくパスポートと車検証,ここで両替をする。

今日は車の事で大きなアクシデントがあった。ベルゴロドのサーキット場でのタイムレースを終えて出口に向かっていたところ,他の車から,車体から蒸気が出ていると指摘された。エンジンのオーバーヒートだと思ってラジエーターに水を入れてだましだまし運転して行ったが,国境の近くでまた水位が低くなったので,道路脇の民家で水を貰おうと横道に入って行った。あいにく建築中の家ばかりだったが,車が1台あるので誰か入るだろうと思って車を止め,人を捜したところ,工事の大工さんみたいな人がいた。車の状況を見せたところ,すぐに水道に案内して何度も水を入れてくれた。最後に予備のタンクとしてポリタンクに水を入れて持たせてくれた。ちょうどその時,ラリーのスウィープチームが3台やってきて幹線道路への移動を助けてくれた。幹線道路から我々の車が見えたのだと言う。大工さんには丁重にお礼を言って1000ルーブル(約3500円)を渡した。良いウオッカを買ってほしい。

ウクライナ側に入って走り出すと今度はオイルが心配になってきた。早くオイルを買いたいと思ってガソリンスタンドに入ると,ガソリンしか売っていない。途方に暮れていると駐車場でウクライナ人の中年の夫婦が簡単な昼食をとっているので,空のエンジンオイルの缶を見せながら、もしオイルを持っていたら譲ってくれないかと頼んだ。当初は持たないと簡単な返事だったが,再度,エンジンが心配なのでと身振りで訴えると,その気持ちが通じたのかトランクの奥から予備のエンジンオイルを出してくれた。彼らにとっても、いつでもすぐに買えるという訳ではないだろうから,渋る気持ちも分かるが,結果は譲ってもらう事ができた。540(単位を忘れたが,日本円にすると13倍する。)。結構高い買い物だったが,急場を凌ぐためにやむを得なかった。

このように体当たりで水とオイルを確保して、やっとハリコフのホテルに到着。レスキュー隊に車の状況を見てもらうと,6人総掛かりで点検してくれて,結果、ガスケット(シール板)が破れているので,水がエンジンルームの中にどんどん入っているのではないか。一度エンジンを分解してみる必要があるが、それは大仕事なので時間がかかるし,部品(ガスケット)が必要なのでイギリスに注文しなければならないという。結局これ以上は走れないので,明日の走行は諦め,トラックで次の目的地キエフまで送ってもらい,また部品を注文して,キエフの修理工場で解体・修理をする事にした。一時的な脱退で残念だがやむを得ない。

Chikushi

ロシア美人に頼まれて、ハイポーズ
私から積極的に腕を廻した訳ではない
念のため

  • 前を行く参加車
    雨の日もこのスタイルです

  • 国境通過前の集合場所

  • ロシア最後のタイムレース会場
    沢山のギャラリーが押し掛けて来ている
    タイムレース後、恐れていた事態が起きた

Moive

Peking to Paris Motor Challenge 2013 #94 Sugiyama&Chikushi


杉山・筑紫チームのユーラシア大陸横断記「23日目」です。次の動画は24日目からの「修理・復活編」です。

Kharkiv ハルキウ 

通貨フリヴニャ
1フリヴニャ=3.75円(2024年12月21日現在)
緯度北緯50°(プラハと同じくらいの緯度)
経度東経36.2°
年間降水量549mm(東京は1529mm)
ビッグマック指数ウクライナでビッグマックは約71円(東京では通常320円)

<ハルキウ>

ウクライナ北東部の都市で、ハルキウ州の州都。日本ではハリコフの名でも知られています。人口は約145万人。人口ではキエフに次いでウクライナで2番目に大きな都市です。ウクライナの工業の中心で、ソビエト連邦においても、モスクワ、レニングラードに次ぐ第3の工業都市でした。特に、機械工業、兵器製造(戦車等)、航空機生産、トラクター生産が盛んです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kharkov_Freedom_Square.jpg
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

<歴史>

17世紀中ごろにウクライナ・コサックによって建設されました。ロシア帝国の要塞が築かれ、南部の軍事的拠点とされていました。19世紀以降、工業都市として急速に発展しました。そのため、ロシア人の入植が大規模に行われ、また産業の発展に伴いユダヤ人人口も増加しました。
1917年1月6日から1934年6月24日まで、ハルキウはウクライナにおけるボリシェヴィキ・ソビエト勢力の拠点とされ、同派のウクライナ人民共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都となりました。これは、ロシア革命後にウクライナ民族主義の盛んであったキエフを避けてのことであったとされています。また、ロシア人やユダヤ人を中心とする労働者人口が多かったこと、都市が十分に発達していたことなどが、都市民に支持基盤を置くボリシェヴィキにとって都合のよい点でした。
第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍に占領されましたが、1943年8月23日にソ連軍が奪回しました。ドイツ軍の占領下で何万人もの住民が虐殺されたといわれています。
1805年に開設されたハルキウ大学があり、文化・教育の中心地でもある。2004年には建都350年が祝われました。
2012年にはサッカー欧州選手権が開催されています。


http://en.wikipedia.org/wiki/File:23_August_Lane_Kharkov.JPG
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

明日のルート