レース記録

Day17

2013.06.13

本日のルート

昨日の事故の事もあり,本日のタイムレースは中止
我々は数日前から、車がタイムレースに参加出来る状態でないため、タイムレースには参加していない

早くホテルにつく事を目的に車を走らすが、道中居眠り防止のため声を掛け合っている
3時過ぎにhyatt hotelに到着。今までのhotelの中では一番良いホテルに感じる、また今までと同様に、全ての電化製品は韓国製である。韓国パワー恐るべしである
チェックイン後、ショピングセンターに買い物に行くため、久し振りに現代の車(ジャガー)をチャーターした。当たり前だが、音はしないし室内は綺麗であるので感激。  これでパリまで行くには、幾ら掛かるのだろうと一瞬考える
ショピングセンターは大きく、映画館あり劇場ではエルトンジョンが出演していた
我々は食品スーパーに行き、明日のランチにする果物や飲み物を購入、品数は日本より豊富で、このスーパーが日本にあれば連日満員の盛況であろう
明日はアジアとヨーロッパの境界を通過するとの事、境界線の有無は分からないが、メモリアルがあるとは聞いている。 仮に境界線が会った場合、今まで狭い車内で持て余し気味だった長い足を利用してアジアとヨーロッパを同時に踏んでみようと思う。(きっと足も喜ぶだろう)
毎日西に向かって走っている訳だが、西に向かえば向かうほど近代的になっている感じなので、明日のヨーロッパ入りが楽しみだ

ロシア人について
ロシア人は日本人に冷たいと言われるが、今まで接した中ではそのように感じた事は一度もない
走行中バスの運転手からもたびたび声をかけられる、道を聞けば親切に教えてくれる(時々内容不明)
北方問題など関係ないと思うほどだが、一旦口にしたら激しくなるだろうな・・
ただ言葉が分からないので、心配ご無用である

明日の長い足の写真をお楽しみに





Sugiyama

今日は水害その他諸般の事情から,ラリーが中止になり、各自エカテリンブルグに向かうことになった。日本人チーム3組は7時半にホテルを出発し,幹線道路を走る。

チュメニは戦後開発された油田が有名なので油井のやぐらでも見えるかと思ったが,全く見えず,郊外に出ると昨日までと同じ草原と白樺の景色に変わった。しかし西に行くにつれて明らかに耕作地の面積が広くなり、緑も管理された緑になってきた。ただ相変わらず牛、羊等の家畜の姿が見えない。ロシア人もミルクやチーズを食べるはずだが、どうしているのだろう。途中で車を止めると,ハエやブヨが飛んでくるようになった。これまでなかったことだ。

途中の町で,幹線道路から市内に入って行ったとき,折悪しく踏切で延々と貨物列車の通過を待つことになった。お陰で周辺の道路は大渋滞となったが,誰も文句を言わず,黙って待っている。慣れているのか,言ってもしようがないと諦めているのか,とにかく日本では開かずの踏切としてすぐに問題になるような状況だった。その踏切は待避線の踏切で,すぐ近くを幹線であるシベリア鉄道が通っている。複線・電化の立派な線路だった。

エカテリンブルグに近づくと、片側二車線、分離帯付きの高速道路に変わったが手入れが行き届いておらず,白い車線もない。これまで三日間の道路事情は,良いところはスムーズに走れるが,がたがた道も長い区間あって,手入れに時間と金が掛かることがわかる。

エカテリンブルグの町に入ると緑が多く大きな町だ。ロシアで第4番目に大きな町だという。また、中心部は瀟洒な感じで、さすが長い歴史を持つ町であることを実感する。町はウラル山脈の東側中腹に位置するようで,東から走ってくるとそれまで標高80mだったのが,町に着くと200mになっている。近づくにつれて山(ウラル山脈)が見えるかと思っていたが,そういうことはなくゆるやかに上ってきたことになる。ただホテルの窓から眺めると山並み(むしろ丘の連なり)が見える。これがウラル山脈か。アジアはここまでで終わりになる。

エカテリンブルグは1723年にロシア人の町として開拓されたと記されている。時代はピョートル大帝の頃で,町の名前は王妃のエカテリーナに由来する。一時、スベルドロフスクと名前が変わったことがあるが今では昔のエカテリンブルグとなっている。レニングラードがサンクトペテルブルクに戻ったようなものだ。

本日,8日目から11日目までのモンゴルでの記録を追記しました。
ついでの折にご覧ください。

Chikushi

ラリーの合間の休憩。日本人3チームが太陽の光を浴びながら、コーヒー、アイスクリームを楽しむ。周りでロシア人たちが興味深い目つきで眺める。

  • 長い長い踏切。強行突破出来ないように,分厚い鉄板が立ち上がっている。

  • シベリア鉄道。ロシアを横断する大動脈の素顔。電化・複線。

  • 途中で立ち寄った幹線道路脇のカフェ。三台が駐車しようとしている。カフェはその後ろの古びた建物。

  • カフェの内部。狭いが家庭的な雰囲気。秋以降はドライバーにとって,つかの間の憩いの場になることだろう。入り口に風よけのスペースがあり,よく考えて作ってある。

  • ホテルの部屋からの眺望
    有名教会が見える

  • 素晴らしい町並み

  • 道路脇の食堂。前に広場があってアットホームな感じ

  • 隊列を組んで、さあ出発。

Moive

Peking to Paris Motor Challenge 2013 #94 Sugiyama&Chikushi


杉山・筑紫チームのユーラシア大陸横断記
本日の動画はございません。次の動画は「19日目」です。

Yekaterinburg  エカテリンブルク(エカチェリンブルク) 

通貨ロシア・ルーブル
1ロシア・ルーブル=1.54円(2024年12月2日現在)
緯度北緯56.8°(モスクワと同じくらいの緯度)
経度東経60.6°
年間日照時間1841時間(東京は1881時間)
年間降水量537mm(東京は1529mm)
ビッグマック指数ロシアでビッグマックは約112円(東京では通常320円)

<エカテリンブルク>

エカテリンブルクはロシア連邦中央部に位置する大都市で、スヴェルドロフスク州の州都。
1924年から1991年までは、革命家スヴェルドロフを記念してスヴェルドロフスクと呼ばれていましたが、現在は旧名に戻されました。州の名称は現在もスヴェルドロフスク州となっています。
ウラル山脈中部の東側(アジア側)斜面に位置し、イチセ川が流れています。40キロメートル西には、ヨーロッパとアジアの境界線が走っています。
ウラル地域の工業・文化・教育の中心地で、交通の要衝でもあります。ウラル連邦管区の本部が置かれ、高等教育機関、博物館、劇場なども多数あります。ロシア国内ではニジニ・ノヴゴロドに次ぐ5番目に人口の多い都市です。
州内の産業の中心で、機械工業・金属工業、製鉄や非鉄金属の精錬などが行われています。軍需産業と呼ばれる産業に関連する企業が多く、旧ソ連時代も軍需産業の一大拠点でした。
一連のロシア革命の最中、十月革命(ユリウス暦の1917年10月25日)の後、皇帝ニコライ2世は妻子とともにこの地に送られ、1918年7月17日にイパチェフ館で一家もろとも銃殺されました。処刑の舞台となったイパチェフ館は1977年、当時スヴェルドロフスク州の一等書記であったボリス・エリツィンの命令で破壊されました。その跡地には2003年に「全ロシアに輝ける諸聖人の名による、血の上の大聖堂」が建てられています。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yekaterinburg-city.jpg
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

<文化・教育>

ロシア科学アカデミー・ウラル支部(UB RAS)のほか数多くの研究施設、A.M.ゴーリキー・ウラル国立大学、国立ウラル工科大学、国立ウラル林業大学、国立ウラル教育大学、国立ウラル鉱業大学、国立ウラル鉄道大学など16の各種国立大学も揃っており、研究と教育の中心です。
市内には多数の図書館があり、代表的なものはV.G.ベリンスキー科学図書館で、州内最大の公立図書館です。
また、市内にはエカテリンブルク・バレエ・オペラ劇場、スヴェルドロフスク・ミュージカル・コメディ劇場、エカテリンブルク・ドラマ劇場、エカテリンブルク青少年劇場など多数の劇場があり、多くの劇団や楽団も集まっています。その中にはロシア現代戯曲を代表する劇作家や、ロシアのコンテンポラリー・ダンスシーンを代表する多数のカンパニーもあります。オペラ歌手も多数スヴェルドロフスク/エカテリンブルクから輩出されてきました。ポピュラー音楽も盛んで、ソ連時代末期より多くのロックバンドがこの街から生まれています。
ウラルの考古遺物を展示する博物館やウラルから産出される鉱物や宝石を展示する博物館のほか、30以上の美術館・博物館が集中しています。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:ChurchOn_Blood.jpg
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

明日のルート