レース記録

Day19

2013.06.15

本日のルート

昨晩遅く、ミッション交換のため遅れていた加藤先生が到着。朝は互いの無事を確認してから出発
夕食時に、日本人全員が加藤先生の苦労話と武勇伝を聞いて、おおいに盛り上がった
これで何とかパリまでに行きたいと思っているが、我々の車が大いに気になる状態になってきた、主治医の五十嵐様が何とか延命させてくれているが、いつご臨終になるかは分からない
ご臨終になった場合は、レンタカーに94番を付けてパリまで行く覚悟はしている(いくらかなー)
何せホテル代は2部屋分前払いしているので問題はないのだから・・
レンタカーになった場合は、ベントレーはパリから日本に戻す(出発前の計画通り)
前にも書いたが、この手の車を買うときは、有名人が乗っていたとか、本に紹介されている車とか
売り側のセールストークを信用して絶対買ってはならない
あくまでも車本体を入念に調べ買うべきである
ひどい業者は、この手の車は、油漏れやブレーキが効かないのは当たり前だと嘯き、そんな当たり前のことも知らないのかと客を小馬鹿にする。悪質業者にはくれぐれもご用心に 💢
出場93番(ブログ参照)彼は奥様と出場、職業はクラシックカーと部品の販売をしている
私と同じベントレーを、スーパー改造しており、故障は知る限り一度もしていない
彼は我々の車を心配して、出来る限りの協力をしてくれている
今度買う時は、五十嵐さんと相談しながら、彼のようなプロから買いたいものだ


ホテル到着後、地元プレスの取材を受けた。
記事として載っていたらブログで紹介する予定だったが、忙しすぎて確認出来ず


Sugiyama

ウファ発8時21分、天気晴れ,気温は13−19度(ホテルの週間予報)。

ウファからの幹線道路は,モスクワが近くなったこともあって,片側3車線、分離帯付きの立派な道路だった。しかし、ウファから50km先くらいから,これまでと同じく道が悪い区間はひどい状態で,特に道路工事の箇所では上り下りを交互に車を通すためその通過に一時間近くかかった。今日は土曜日だが,交通量はトラックも含めて非常に多く,ロシアの中心部に近づいているのを感じる。

今日は良いことと悪いことの落差が大きい日だった。
幹線道路では交通警察が追い越し禁止の取り締まりをやっていて、昨日もラリーの参加者が3組捕まったという話だった。我々の車はそんなにスピードを出せないので90km位で他の車と同じように走っていたところ、警察官に道路脇に寄るように指示された。

スピードも出していないのに何だろうと不思議に思いながら免許証を出す用意をすると,ひとしきりロシア語でしゃべった後,モスクワに行くのかと聞いてくる。いやサマラに行くと答えると,この車は何という車かとの質問、ベントレーと答えながら,免許証を見せろと言わないのは変だなと思っていると,写真を撮っていいかと来た。こうなったら友好的に振る舞った方が良いと思い,車から降りて警察官と一緒に写真を撮った。珍しい車が通るので記念撮影をしたということか。

彼の話によると,この近くに,1947年の日本人兵士のお墓があり,30−40人が埋葬されているという。場所の名前をメモに書いてもらったがとても分からないので,丁寧にお礼を言ってその場を去った。サマラの手前200kmの地点だ。

サマラ市内に入ったところでうまい具合に31番のイギリスチームの後ろに付いて,ホテルまでスムーズにくることが出来,今日は良い日だったと思いかけたところ,クラッチの具合がおかしくなった。

以前から,クラッチが滑り気味なので半クラッチにしないようにと89番の五十嵐さんから注意を受けていたが,それがついに限界にきたようで、クラッチを踏むと金属の摩擦音が激しくなった。クラッチがおかしくなったら走れないので,これで終わりかと二人して暗澹たる気持ちになった。

車を何とか駐車場に入れて,すぐに五十嵐さんに相談すると、彼自身も到着したばかりでまだ部屋にも入っていない状態だったが、荷物を置いてすぐに点検してくれた。夕方の暑い日差しの中,ジャッキで持ち上げた車の下に潜って作業すること約1時間,何とかクラッチの状態が良くなった。明日もう一度走ってみて具合を見ることにするが、杉山ブログで何度も紹介されているように,五十嵐さんのお陰で日本人チーム3組が本当に助かっている。また,工具を貸してくれたり,マットを出してくれたりする等,日本人チームの皆さんの支えに心から感謝。

今日も一日,高い山を見ることがなかった。ノボシビルスクを出て5日間、2600kmに渡って,丘のようなウラル山脈を除いて山がないという広大な土地だ。広大という点では,昨日のウファと今日のサマラとの間には2時間の時差がある。なぜ2時間か,それを調べておきたい。

しかし何れにしても,西に行くというのは良いことだ。一日が25時間の日があれば,今日のように26時間の日もある。また時差の調整も必要ない。

明日は休養日,みんなが楽しみにしている。

Chikushi

職務質問の警察官と記念撮影。身体の大きさの違いに愕然。アイン・ビスヘン・ドイチュでコミュニケーション。

  • 今度は別の警察官も一緒。この後,戦後の抑留者のお墓の話をしてくれた。

  • ホテルに到着直後から,我々のクラッチの点検・修理をしてくれた五十嵐さん。
    修理がうまく行って,笑顔で談笑しているところ。真ん中がもちろん五十嵐さん。
    手前で写真を取っているのは、サマラのプレス

  • 幹線道路の標識。モスクワまで1250kmの表示が見える。一行目はサマラのロシア語表記。二行目と四行目は何語なのか分からない。

  • 幹線道路脇の麦畑。耕作地にあるものとしては,後はジャガイモと牧草。

  • ラリーの朝の出発風景。このテーブルで時間を記入してもらってスタートする。

  • 道路工事の渋滞の列。待ち時間が約1時間になる。これが幹線道路。

  • ガソリンスタンドの厳重な防犯体制。窓に鉄格子が付けてある。外部の飲み物ケースには鍵がかかっている。

  • 地元メデイアと日本チーム広報

  • 恐怖のトイレ
    開ければ地獄を見る

  • 加藤先生交えて市内のレストランで食事

  • お巡りさんも車に興味が有るようだ

Moive

Peking to Paris Motor Challenge 2013 #94 Sugiyama&Chikushi


杉山・筑紫チームのユーラシア大陸横断記「19日目」です。
次の動画は「22日目」です。

Samara  サマーラ 

通貨ロシア・ルーブル
1ロシア・ルーブル=1.49円(2024年12月21日現在)
緯度北緯53.2°(ダブリンと同じくらいの緯度)
経度東経50.1°
年間降水量561mm(東京は1529mm)
ビッグマック指数ロシアでビッグマックは約109円(東京では通常320円)

<サマーラ>

サマーラは、ヴォルガ川東岸にあるロシア連邦の都市で、ヨーロッパ・ロシアの南東部にあるサマラ州の行政の中心です。1935年から1990年まではソ連共産党政治局員・副首相・ゴスプラン議長等を歴任した革命家ヴァレリヤン・クイビシェフに因んでクイビシェフと呼ばれていました。
人口は1157880人(2002年全ロシア国勢調査)で、ロシア連邦ではエカテリンブルクに次ぐ6番目に大きな都市です。ヴォルガ川が大きく東へ屈曲し、サマーラ川が合流する場所にあります。サマーラ市の西はヴォルガ川が流れ、北はソコルイ丘陵、東と南はステップ(草原)が広がっています。
サマーラ州のサマーラ・トリヤッチ・シズラニを中心とした大都市圏は重工業などが盛んで、全体の人口は300万人に達します。
サマーラの生活はヴォルガ川とは切り離せません。ヴォルガはサマーラ発展の鍵を握る物流と交易の道でしたが、それだけでなくヴォルガの幅広い流れが作る景観がサマーラを特徴づけています。ヴォルガ河畔の通りや公園はサマーラ市民や観光客のお気に入りの散歩道であり、この町を訪れた多くの文人がヴォルガ川に沿った長く美しい川岸の景色を愛でてきました。
1586年にタタール人に対する防衛の基地が築かれ、その後、ヴォルガ地域の穀物の交易の中心地として発展しました。機械工業・化学工業などが盛んです。宇宙船「ソユーズ」や人工衛星を造る航空宇宙産業の中心でもあるため、冷戦期には閉鎖都市にされていました。第二次世界大戦でドイツ軍がモスクワに迫った際には、多くの政府機関がサマーラに移されました。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ladya_Samara_winter.JPG?uselang=ja
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

<ドルジバパイプライン>

1964年、ソ連中央部で産出する石油をエネルギー資源の少ないソ連西部やヨーロッパの社会主義諸国へ供給する目的でドルジバパイプラインが建設されました。2009年現在、ドルジバパイプラインはロシアおよびカザフスタン産の石油をヨーロッパに輸出する最大のルートとなっています。サマーラはパイプラインの起点であり、ここには西シベリア、ウラル、カスピ海からの石油が集まってきます。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Samara_-_Port_(2008-07-13).jpg?uselang=ja
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/