レース記録

Day22

2013.06.18

本日のルート

今日は珍しく車の問題も起きず比較的順調なレースであった
レース中まとまった雨が降ってきた、我が車の助手席ワイパーは。モンゴルで修理不可能の状態になっていて、柱の部分のみが悲しげに動いているだけだ。
今までの車の状態を考えれば、ワイパーごときが動かないなどは大したことではない。
何とかこのままEU圏に入ってもらえれば、たとえ走行不能になったとしても、レンタカーでパリまでは行ける。(レンタカーに北京パリのステッカーを貼りながら・・)
ちなみにロシア入国時、車の入国審査が厳しかったので、レンタカーでロシアからパリまで行くのは
現実的ではない
そんなことで、毎日が車のご機嫌を伺いながらのレースである
明日はウクライナだ、東京からのメールではウクライナには美人が多いと言ってきたので、良く観察してみたい(獣のような目付きにならないよう注意しよう・・)
明日は国境(300キロ先)での集合、遅くても6時半に出発、果たして明朝のエンジンスタートはうまく行くか?

Sugiyama

サラトフの朝は気温18度、薄曇りで実に心地よい。5時に起床,船のエンジン音が港町であることを思い出させる。

8時24分スタート。我々は今日の72番目のスタートだが,この後7−8組がいるだけなので,全体では約80組が今日のラリーに参加する計算だ。以前の段階でリタイアした組が修理をして戻って来たり,今朝の調子が悪くて出場を見合わせる組が出る等,毎日流動的だが,全部で100組のうち,約20組,5分の1がリタイアしたことになる。

今日は52番の加藤・オリエ組がまた故障で定時のスタートが厳しくなった。昨日は我々が助けてもらったのだが,その後で52番のブレーキとクラッチがおかしくなったと聞いた。結局,加藤チームは3時間遅れでヴォロネジに到着した。

幹線道路はいつものように舗装が整備された区間と工事中やがたがたのままの区間があり、いつがたがた道になるか表示されていないので、100km近い高速で走っていて突然ガタンと悪路が始まることになる。

ただ今日の幹線道路は不思議だった。舗装道路が20km以上に渡って,片側2車線、中央分離帯つきの構造で整備されている。この辺はモスクワの南1000km位で経済活動も活発であると思うが、これだけの高速道路は必要ないだろう。思うにこれはいざという時の滑走路ではないか。飛行機が何機も離着陸出来るだけのスペースが準備されている。これから行くヴォロネジは、第二次大戦で建物の92%が破壊されたという。ちょうどドイツ軍がスターリングラードを目指す進路の上にあったため戦場になったのだろうが,その時の教訓からソ連邦時代にこのような整備がなされたのではないだろうか。

今日のラリーのコースは後半部分で幹線道路を離れ,田舎道を通る設定だった。田舎道と言ってもほとんど舗装されており,トラック等が少ないのでかえって走り易いくらいだ。道路の両側には耕作地が広がり小麦やジャガイモが大きくなっていた。また,牛や馬の放牧がところどころで見られた。農家もしっかりした建物で、豊かな農業地帯という印象を受けた。ロシアの民家は窓枠が特徴的で,青や緑で枠を彩り,中はレースのカーテンが飾られ、部屋の内部は暖かくしているのだろうと想像させる。

今日は久し振りに大きな問題もなく終えることが出来たが,反省点としては,運転者を交代したときにルートの確認を十分にしなかったために、10km近く間違った方向に走り,往復で20km、時間にして30分程度のロスをしてしまった。また田舎道では,幹線道路と違ってガソリンスタンドが非常に少なく,補助タンクを使って何とかその場を凌いだが、田舎道に入る時は,ガソリンのチェックをすることが大事だ。

朝8時半から夕方6時まで、9時間半、545kmの一日が終わった。午後,一時雨になり,走りにくかったが,昨日のような暑さはなく,ラリーにとっては良い日だった。明日はロシアからウクライナに入る。

Chikushi

助手席のワイパーは、モンゴルで吹っ飛んでいて、バーのみが動いている

  • サラトフを出発。後ろはピンク色の教会と修道院か。立派な建物だ。

  • ジャガイモ畑。広大な土地に植えられている。

  • 道路沿いの民家。窓枠が特徴的。

  • 同じく民家の様子。

  • 行く先々で、住民が近寄ってくる

  • 道路中央より東を望む

  • 道路中央より西を望む
    同じ景色が延々2時間ほど続く

Moive

Peking to Paris Motor Challenge 2013 #94 Sugiyama&Chikushi


杉山・筑紫チームのユーラシア大陸横断記「22日目」です。次の動画は「23日目」です。

Voronezh ヴォロネジ 

通貨ロシア・ルーブル
1ロシア・ルーブル=1.52円(2024年12月21日現在)
緯度北緯51.7°(ロンドンと同じくらいの緯度)
経度東経39.2°
ビッグマック指数ロシアでビッグマックは約111円(東京では通常320円)

<ヴォロネジ>

ヴォロネジは、ロシア南西部に位置するヴォロネジ州の州都でヴォロネジ川(ドン川支流)の河港市です。街は中央ロシア高地の東、ヴォロネジ川の両岸に広がり、ヴォロネジ川は12キロメートル下流でドン川に合流しています。
ロシア鉄道の子会社でヨーロッパ・ロシアとウラル地方・シベリア・カフカース・ウクライナを結ぶ南東鉄道の本社が置かれています。モスクワとロストフ・ナ・ドヌを結ぶM4幹線道路(ドン・ハイウェイ)の重要な中継地でもあります。人口848752人(2002年全ロシア国勢調査)と、ロシアでも20位以内に入る大都市。2012年、ロシアで15番目の100万人都市となりました。
掘削機やプレス機械、合成ゴムなどの工業の他、ソフトウェア産業なども盛んです。州立ヴォロネジ大学の他、大学が多くあります。
第二次世界大戦では1942年7月にドイツ軍のブラウ作戦によってソ連軍との激戦地となり、市街は壊滅状態となったが戦後復興しました。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Voronezh.JPG
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

<文化>

18世紀以来のバロック建築や新古典主義建築の建物がヴォロネジには残っています。独ソ戦で多くが破壊されましたが、戦後になり総督宮殿や聖堂なども再建されました。
ヴォロネジは7つの劇場やヴォロネジ大学などが立地する、黒土地帯の経済・産業・文化・科学の中心として重要な存在です。ヴォロネジは学生が多く、とりわけロシアに留学した外国人学生の語学研修の場ともなっています。一方で2005年から2006年にかけて外国人学生への襲撃事件も相次いで問題となりました。
パーヴェル・チェレンコフらが学んだヴォロネジ大学は、エストニアがロシア革命後に独立を宣言しドイツ軍に占領された1918年に、名門タルトゥ大学の教授や学生の一部がボリシェヴィキ政府によりこの地に移されて開学しました。その他、ヴォロネジ農業建築大学、ヴォロネジ森林大学、ヴォロネジ工科大学ほか多数の大学・大学分校・研究機関が集積しています。


https://en.wikipedia.org/wiki/File:%D0%91%D0%BB%D0%B0%D0%B3%D0%BE%D0%B2%D0%B5%D1%89%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D1%8F_%D0%92%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%BD%D0%B5%D0%B6%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9.jpg
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

明日のルート