レース記録

Day15

2013.06.11

本日のルート

日本チームのご紹介です

岩崎・秋山チーム
岩崎氏は、大阪のアパレルメーカー会長
グライダー歴は50年で、過去にアメリカ縦断を車でもしている、生粋の関西人で行動派
秋山様は、お寺の住職兼幼稚園園長
人間以外なら、なんでも食べる健啖家であり、スピードマニア
前半戦において、彼らのハイライトは車の転覆で、ドライバーは無論秋山氏
幸い村の近くでのアクシデントだったため、村民が8人ぐらいで車を起こしたそうで、一時は馬まで来たとのこと
村民に謝礼をしたことは言うまでもありません。
昨日は3台共、日産でサービスを受けた。これは岩崎氏がフェアレディーだから日産に行けば、断わられないだろうとの発想で、3台連れ立って飛び込みを強行・(さすが関西商人)
結果日産は気持ちよく、出来る範囲のサービスをしてくれ、価格も1台6時間で約5000円だった(ウランバートルのベンツ社は5万円)
各車色々と故障箇所が出ているが、針金・テープ・紐が大変に役に立っている。
ちなみに秋山氏にみんなが、幼稚園児300人にどのような交通教育をするのと尋ねたところ無言だった。
今回の転覆事故は有名になり、最後は何らかのプレゼントがあるかも、、

北見・五十嵐チーム
北見氏(75歳)は、練馬にあるお寺の住職である。
1万坪以上ある敷地に、42台の名車を置いており、大阪には85フィートのクルザーを置いている
彼はアルコールは全くダメだが、今でも銀座通いをしているそうだ
北京入りしたときは、体調を崩しお粥だけだったが、参加者の加藤先生が
診断、血圧脈拍共問題ないが一応点滴を施したため日増しに元気なり
今や悪路もガンガン飛ばすほどになった。
彼の好物は塩、塩分撮り過ぎの苦言も何のその・・
そんな彼を、我々はラスプーチンと読んでいる。
五十嵐氏
株式会社 ガレージ五十嵐社長
彼はコーンズで長年サービスを勤めた後、ガレージ五十嵐を立ち上げている
サービスマン20名以上抱えたレストア専門の会社である
岩崎チームと我々は、毎日五十嵐社長にお世話になっています
何かあれば「五十嵐さーん」
自分の車も大変なのに、嫌な顔をせず面倒をみてくれている
彼が居なければ、我々はここには居なかっただろう
そんな彼の行動を、北見さんも積極的に支持していくれているので、両名には感謝している。
この手の車を買うときは、彼のようなメンテナンスの専門家に相談して
買うのが一番だと痛感した次第だ  反省・反省

加藤・フランス人チーム
加藤氏は名古屋の病院理事長である
今回は、フランスよりルノー車でフランス人メカを帯同しての参加
出発前、加藤先生からは、日本人参加者全員が鳥インフルエンザ対策用としてタミフルを頂いている。今や日本人チームの主治医である
日本人参加者の中で、一番余裕があるのが加藤先生
事実ウランバートルでは、我々が修理工場に缶詰の中、加藤先生は市内観光や寿司屋に行ったりし、夜にはデパート巡りをしていました
翌日国会議事堂前で行われた出発式に、加藤先生を見た以降はお見受けしておりません。
その後の情報では、ミッションギアが壊れ、ミッション其の物を本国から取り寄せ、修理後戦線復帰するとのこと、今夕モンゴルを出国したと聞いておりますが、車の方は順調でしょうか?
ちなみにこれらの情報は、イガラシ社員が加藤先生のフェースブックを見ての連絡です。
加藤先生へ
我々は何度か加藤先生への連絡を試みましたが、繋がりませんでした。
車に余裕ができましたら、どなたの電話でも構いませんのでご連絡いただければと思います。

杉山・筑紫チーム
自分のことは書きづらいのでカット。 
まーイケメンと思ってください(笑)
筑紫氏
元官僚で、現在は大手飲料企業の顧問並びに弁護士活動を行っている
車以外では、日本チームの中心的存在
語学堪能のため対外折衝は全て彼が担当、語学が通じないところでは、ボデーアクションでカバーしている。(見ていると面白い)
経歴通り真面目そのものであるが、今日の出来事を一つ紹介
ホテル到着前に道に迷った、繁華街のど真ん中に来たとき(銀座4丁目みたいなところ)右折をしたいが右折禁止、おまけに警官2名が立っているのではないか
彼はそこを右折したらと言う、えーですよ(すごい見物人が居るところで・・)
目立つ車なので、注目を浴びているのが分かる
捕まったら観光客だと言うことで強行、右折したとたん、変なところから車が向かってきたので、左に急ハンドルを切って難を乗り切り、何とかHotelに到着した次第
彼はドイツに5年いたため、ドイツ語は得意である。今後オーストリア・スイス等のドイツ語圏に突入しますので、ますます彼の力が必要になってくるでしょう。

c尚、ご紹介することについては皆様の承諾を得ております。

ここ数日、一人乗りの車を数台みた。パートナーが居ないんだ
理由は分からぬが、おそらく喧嘩したのだろう
例のフランス人夫婦は昨晩仲良く食事していた
とにかく皆さん疲れているので、居眠り運転は気を付けなくては

デジカメが壊れたので新たに購入、それも壊したので今日購入しますので、写真は少々お待ちください











Sugiyama

昨夜の激しい雨が止んで,晴天。気温13度。雨による道路の被害のため,今日はラリーは中止。各自オムスクに向かうことになり,日本人チームは7時15分にホテルを出発。

オムスクへの幹線道路はM51で,片側1車線の分離帯なしの道路。追い越しは反対車線に出て行うが,トラックの数が多く気を使う。周りは耕作地がほとんどなくなり緑の原野と湿地帯が延々と続く単調な風景だ。また,一昨日と違って途中の村や町がなく放牧の牛や羊もいなかった。思うに,新しい幹線道路を造るときに,村や町を避けて原野を通したのだろう。こういう風景なので1時間も走れば睡魔が襲ってくる。

昼食はガソリンスタンドに近接するカフェで,ピロシキとボルシチという典型的なロシア料理と飲み物を注文した。美味しかったがこれで164ルーブル(650円)なので,土地の人には高いのかもしれない。

ガソリンスタンドのシステムは料金前払い制で,例えば1000ルーブル(約4000円)分のガソリンが欲しいと金額で指定する(1リットル28ルーブル(約112円)なので、35.7リットル)。その後ガソリンが出てくる仕組み。お金の支払いカウンターは,まるで両替所のカウンターみたいにセキュリティが厳しく、お金のやり取りはカウンターにある小さな出し入れ口を通じて行う。夜のガソリンスタンド周辺には何もないのだから,これだけの防犯対策をとるのだろう。

ここまでは順調に来たが,オムスクの町に入って道を間違え,車の渋滞に引っかかって悪戦苦闘した。しかしお陰でオムスク銀座とも言うべき繁華街と人の波を見ることができ,賑やかな町だと感じた。また,ホテルの窓から見ると大きな川の側に,帝政時代の貴族の館と思われる立派な建物がある。1912年に西シベリアの中心がノボシビルスクに移るまで,オムスクがその中心だったが,良く理解出来る気がした。

本日、6日目(ウランバートルからブルガン)と7日目(ブルガンからムルン)の記録を書き込みました。併せてご覧ください。

Chikushi

向かって右が岩崎会長・左が秋山サン

  • スーパードクターの加藤先生
    フランス人のマーク

  • 左側 杉山
    右側 筑紫

  • 左側 北見住職
    右側 五十嵐社長

  • ノボシビルスクの町を出て,オビ川を渡る。シベリア第一の大河。

  • 同じくオビ川。右後方はノボシビルスク。

  • オムスクの町。埃っぽくて、あまり印象の無い町。

  • ホテルの窓から見た風景。川の有る所に町が有る、というのがシベリアの一般原則(?)

  • 途中の食堂で食べたボルシチとピロシキ。

  • 食堂内の模様。テーブルは4つ。

Moive

Peking to Paris Motor Challenge 2013 #94 Sugiyama&Chikushi


杉山・筑紫チームのユーラシア大陸横断記
本日の動画はございません。次の動画は「16日目」です。

Omsk オムスク 

通貨ロシア・ルーブル
1ロシア・ルーブル=1.64円(2024年4月26日現在)
緯度北緯55.1°(コペンハーゲンと同じくらいの緯度)
経度東経73.3°
年間日照時間2204時間(東京は1881時間)
年間降水量400mm(東京は1529mm)
ビッグマック指数ロシアでビッグマックは約120円(東京では通常320円)

<オムスク>

オムスクは、ロシア連邦中南部の都市で、シベリア連邦管区の西端に位置します。シベリアではノヴォシビルスクに次ぐ2番目に大きな都市です。モスクワから2555km。
シベリア開拓の拠点として知られ、ながらく西シベリア総督が本拠を置く西シベリアの中心都市でした。革命以前には、日本領事館もありました。革命戦争の折には、一時、コルチャーク提督率いる自衛軍の首都ともなりました。1934年からオムスク州の行政の中心となっています。
オムスクは現在もシベリア・コサック軍の行政中心地であるほか、ロシア正教会のオムスクおよびタラの主教、イスラム教のシベリアのイマームが存在します。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Omsk.jpg?uselang=ja
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

<産業・観光・文化>

機械工業、冶金、化学・石油工業などの産業が盛んで、シベリアでの食肉産業の拠点です。
市内には、ドストエフスキー記念オムスク国立大学など多くの高等教育機関があるほか、ロシア切っての「演劇都市」としても知られています。中でもオムスク・ドラマ劇場は、安部公房作の「砂の女」を上演、ロシアでもっとも権威のある「黄金のマスク」賞を受賞していることで有名です。また、三谷幸喜の「笑の大学」をロシアで初演したのもこの劇場ですが、他に第5劇場、人形劇場、音楽劇場、青少年劇場もあります。
都市が開放されてからは日本とのつながりも深く、多くの日本の劇団や演劇人が訪れ、オムスク大学では毎年、日露演劇会議との連携で単位認定の「日本文化講座」が開講されるなど、日本との関係はきわめて良好です。
また、オムスクは、ロシアの文豪ドストエフスキーが、1850年1月から1854年2月まで流刑されていたところで、その体験は、後に『死の家の記録』として発表されています。
街並みで見どころとなるのは、リュビンスキー大通りとレーニン通りに建ち並ぶ豪華な建築群です。二つの礼拝堂に挟まれたゴスチヌィ・ドヴォール(18世紀末以降、モスクワやサンクトペテルブルクなどに建てられたような屋内型の市場・ショッピングセンター)が中心となるほか、取引所とドラマ劇場が並んでいます。これらはすべて19世紀末から20世紀初頭の建築です。
近くの通りには、同時期に建てられた保険会社・信託会社・銀行などが入っていた瀟洒なビルが立ち並んでいます。川の合流点には、18世紀のクレムリがひっそりと建っています。ニコルスキー大通り周辺には木造の商家が今も残っています。その先にはコサックが発注し19世紀のロシア有数の建築家ヴァシーリー・スターソフが設計して1840年に完成した新古典主義建築の聖ニコライ聖堂があり、コサックの様々な文化財をおさめています。
オムスク最大の聖堂は1896年に献堂された生神女就寝大聖堂で、ロシア・リバイバル様式の五つのねぎぼうず型ドームのある巨大な聖堂です。ソ連時代に爆破解体されましたが、2000年代にようやく再建されました。
その他、オムスク出身の画家ミハイル・ヴルーベリ(Mikhail Vrubel)を記念したヴルーベリ美術館と歴史博物館があり、それぞれかつての取引所と総督官邸に入居しています。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Omsk_Vrubel_Museum.jpg?uselang=ja
引用:wikimedia commons  http://commons.wikimedia.org/

明日のルート